2009-06-24(Wed)
永遠回帰のくまぶし
くまぶしの生活とくま宗教学の紹介
2009-06-03(Wed)
スターウォーズみたぶし(BlogPet)
くまぶしの「スターウォーズみたぶし」のまねしてかいてみるね
こんばんは。
一方、要するに卑怯なわけですね。
前にだんだんと思いますが力を味方に負けそうになりますが力をいうのがダークサイドをいうのルールになりました。
パルパティーンのほうでしたのことが別のほうでしたのルールに、フォースのかもしれませんが大事だということは強いのですね♪
つまり、サミュエル・ジャクソンに倒されている場合でもいいから強かった人にダークサイドはアナキンをもって、映画館でスターウォーズエピソード3を見たふりをいうの人か甘いです。
*このエントリは、ブログペットの「もっちり」が書きました。
こんばんは。
一方、要するに卑怯なわけですね。
前にだんだんと思いますが力を味方に負けそうになりますが力をいうのがダークサイドをいうのルールになりました。
パルパティーンのほうでしたのことが別のほうでしたのルールに、フォースのかもしれませんが大事だということは強いのですね♪
つまり、サミュエル・ジャクソンに倒されている場合でもいいから強かった人にダークサイドはアナキンをもって、映画館でスターウォーズエピソード3を見たふりをいうの人か甘いです。
*このエントリは、ブログペットの「もっちり」が書きました。
2009-04-22(Wed)
それで選択しなかった(BlogPet)
2009-04-01(Wed)
スターウォーズみたぶし(BlogPet)
2009-02-21(Sat)
スターウォーズみたぶし
こんばんは。くまぶしです。
今日はテレビでスターウォーズエピソード3を見ました。前に、映画館で見たのですが、まるっと忘れていました。でも、みているうちにだんだんと思い出しました。

パルパティーンは、フォースのダークサイドはすごいつよいのだと言っていましたが、ダークサイドといってもたいしたことはなくて、要するに卑怯なことでもなんでもやって、勝負に勝とうとする姿勢のことだと思いました。宮本武蔵と佐々木小次郎みたいですね。つまり、ダークサイドを知ると強くなるわけじゃなくて、何をしてもいいから勝つのだという姿勢がダークサイドなわけです。力をもっているから勝つわけではなくて、勝った方が力を持っているのだというプラグマティックな考え方だと思います。
例えば、パルパティーンは、サミュエル・ジャクソンに負けそうになりましたが、弱ったふりをして油断させて逆転したわけです。力自体は、サミュエルの方が強かったみたいですが、勝負に勝ったのはパルパティーンのほうでした。
また、パルパティーンはアナキンに、ダークサイドを知るとパドメを救うことができるみたいなことをいうのですが、これはたぶん、まるっきり嘘っぱちだろうと思います。この場合でも、うそでも何でもいいから、とにかくアナキンを味方にするのが大事だということなんだろうと思います。
一方、ジェダイの騎士たちですが、オビワンとヨーダ以外の人たちは、クローン兵なんかに倒されてしまって、油断しすぎだと思います。この人たちは力は強いのかもしれませんが、全体に甘いです。フェアプレイの精神というのは、相手も同じルールに従っている場合はフェアプレイになりますが、相手が別のルールに従っている場合、ただの油断した人か甘い人になってしまうと思います。
源義経とか織田信長は、あきらかにダークサイドな人たちですね。この人たちは、卑怯なことをしたから強かったわけです。孫子は兵はきどうなりといっていますが、ダークサイドというのは要するにそういうことだと思いました。
今日はテレビでスターウォーズエピソード3を見ました。前に、映画館で見たのですが、まるっと忘れていました。でも、みているうちにだんだんと思い出しました。

パルパティーンは、フォースのダークサイドはすごいつよいのだと言っていましたが、ダークサイドといってもたいしたことはなくて、要するに卑怯なことでもなんでもやって、勝負に勝とうとする姿勢のことだと思いました。宮本武蔵と佐々木小次郎みたいですね。つまり、ダークサイドを知ると強くなるわけじゃなくて、何をしてもいいから勝つのだという姿勢がダークサイドなわけです。力をもっているから勝つわけではなくて、勝った方が力を持っているのだというプラグマティックな考え方だと思います。
例えば、パルパティーンは、サミュエル・ジャクソンに負けそうになりましたが、弱ったふりをして油断させて逆転したわけです。力自体は、サミュエルの方が強かったみたいですが、勝負に勝ったのはパルパティーンのほうでした。
また、パルパティーンはアナキンに、ダークサイドを知るとパドメを救うことができるみたいなことをいうのですが、これはたぶん、まるっきり嘘っぱちだろうと思います。この場合でも、うそでも何でもいいから、とにかくアナキンを味方にするのが大事だということなんだろうと思います。
一方、ジェダイの騎士たちですが、オビワンとヨーダ以外の人たちは、クローン兵なんかに倒されてしまって、油断しすぎだと思います。この人たちは力は強いのかもしれませんが、全体に甘いです。フェアプレイの精神というのは、相手も同じルールに従っている場合はフェアプレイになりますが、相手が別のルールに従っている場合、ただの油断した人か甘い人になってしまうと思います。
源義経とか織田信長は、あきらかにダークサイドな人たちですね。この人たちは、卑怯なことをしたから強かったわけです。孫子は兵はきどうなりといっていますが、ダークサイドというのは要するにそういうことだと思いました。
2009-02-07(Sat)
ガッツポーズのこと
こんばんは。くまぶしです。こないだの記事で朝青龍のガッツポーズのことを書いたら、めづらしくコメントが三つもつきました。やはり時事ネタは反響がありますね。くま。それで、お返事のコメントをひとつ書いたのですが、長くなってしまったので、猫Giさんとタコのお返事は新しい記事にします。だから、いちおうこないだの続きです。くま。
さきほど、柔道の山下さんがオリンピックで勝ったときの思い出の番組をやってましたが、ガッツしまくりでしたね。要するに、オリンピックだったら別に問題にもなりゃしないということでしょう。
それで、一つ思ったのは、グーでやるからガッツ石松ポーズになるわけで、パーでやったらいいんじゃないかと思います。パーならバンザイなので、日本的なのだと言い張ることができるんじゃないでしょうか。くま。
猫GIさんのいうように、大相撲というのは、スポーツなのか格闘技なのか伝統行事なのか神事なのか興行なのかが曖昧です。それは別にいいんですが、「かわいがり」が悪しき伝統で、「ガッツポーズをしないこと」がよき伝統であるといわれると、ちょっと気に入らないなと思います。どうしてかというと、いい伝統、悪い伝統という判別は、ある立場から判断して、この伝統は良くて、この伝統は悪いといってるわけです。それで、そういう判別をくだす視点は、非伝統的な視点(伝統の外にある視点)です。
ややこしい話なので、ちょっと整理します。伝統が大事という立場を、とりあえず伝統主義とよぶとして、この伝統主義に二つあります。一つは、本当の意味での伝統主義で、もう一つは、くまぶしの気に入らない伝統主義です。「本当の意味での」というのは、「言葉どおりの意味での」という意味で、別にほめているわけではありません。
本当の意味での伝統主義というのは、伝統は伝統であるがゆえに正しくて、現在の根拠になりうると考える態度のことです。こうした態度はもちろん「前近代的」ですから、近代的な態度からするとあまりよろしくないものと考えられています。(くまぶしは別によろしくないとは考えていませんが、よろしいこととも考えていません。もちろん、くまぶし自身はそれほど伝統主義的ではありません。クール&シニカルなくまなのです。)けれど、昔の人はだいたい伝統主義です。有職故実とかはまさにそうですし、神話や儀礼が意味を持つ根拠というのも、こうした伝統主義的態度にあるわけです。
例えば、あるお祭りをするのは、昔からしてきたからです。一般にお祭りには、豊作になるとか穢をはらうとか、そういったさまざまな「効能」があるとされていますが、そうした「効能」ゆえにお祭りをするというのは正確ではありません。まず第一にお祭りをすることになっていて、そのお祭りに+αとして「効能」があるというのが正確だと思います。極端な話、今の人はたいてい、お祭りに「効能」があるなんて信じちゃいませんが、それでもお祭りをします。(しない人ももちろんいますが。)その点では、昔の人と同じだと思います。
さて、以上が文字通りの意味での伝統主義ですが、これに対して、くまぶしの気に入らない伝統主義というのは、近代的伝統主義のことです。近代的伝統主義というのは、近代ナショナリズムとだいたい同じものだと思います。この態度では、伝統が大事だと主張しますが、本当の伝統主義のように、伝統に「盲従」しません。本当の伝統主義は、魚が水の中にいるように、伝統の中で生きていて、それ以外の生き方というのはありえないのですが、近代的伝統主義は、「伝統に従わなければならない」と主張します。つまり、伝統に従うか従わないかは、個人や共同体の選択にかかっているわけです。だから結局のところ、大事なのは伝統ではなく、特定の伝統を大事だと思う自分の判断なのです。
お相撲の場合でいうと、ガッツポーズをしないこととか、女性を土俵に上げないことが伝統的であるがゆえに守られなければならないというなら、「かわいがり」も、相撲協会の閉鎖的性質も、八百長も、伝統的であるがゆえに守られなければならないといわなければなりません。「よい伝統」は伝統であるがゆえに守らなければならず、「悪い伝統」は伝統であっても守るべきではないというのはおかしいと思います。
長くなったので結論をいうと、「伝統ゆえに」ということは、本当の伝統主義的人間以外(つまり近代人)にとっては、理由にならないということです。今回の相撲協会の判断もそうですが、近代的人間が「伝統」を論拠に何かを批判するときは、単に明確に提示しえない「自己」というのを正当化しているだけだと思います。特に朝青龍に対して「伝統」を云々するというのは、近代ナショナリズム全開でちょっと不愉快です。そんなに「伝統」が大事なら、最初から相撲なんぞやらせなきゃいいのにと思います。
ちょっと攻撃的になりましたが、別にそれほど怒っているわけではありません。こういうことはよくあることですし。ただ、相撲協会の人が、神さまがどうのこうのいっていたので、2センチくらいむかついただけです。ちなみに、くまぶしが困ったことだと思っていることは、本当の伝統主義と近代的伝統主義を一緒くたにすることです。くま。
さきほど、柔道の山下さんがオリンピックで勝ったときの思い出の番組をやってましたが、ガッツしまくりでしたね。要するに、オリンピックだったら別に問題にもなりゃしないということでしょう。
それで、一つ思ったのは、グーでやるからガッツ石松ポーズになるわけで、パーでやったらいいんじゃないかと思います。パーならバンザイなので、日本的なのだと言い張ることができるんじゃないでしょうか。くま。
猫GIさんのいうように、大相撲というのは、スポーツなのか格闘技なのか伝統行事なのか神事なのか興行なのかが曖昧です。それは別にいいんですが、「かわいがり」が悪しき伝統で、「ガッツポーズをしないこと」がよき伝統であるといわれると、ちょっと気に入らないなと思います。どうしてかというと、いい伝統、悪い伝統という判別は、ある立場から判断して、この伝統は良くて、この伝統は悪いといってるわけです。それで、そういう判別をくだす視点は、非伝統的な視点(伝統の外にある視点)です。
ややこしい話なので、ちょっと整理します。伝統が大事という立場を、とりあえず伝統主義とよぶとして、この伝統主義に二つあります。一つは、本当の意味での伝統主義で、もう一つは、くまぶしの気に入らない伝統主義です。「本当の意味での」というのは、「言葉どおりの意味での」という意味で、別にほめているわけではありません。
本当の意味での伝統主義というのは、伝統は伝統であるがゆえに正しくて、現在の根拠になりうると考える態度のことです。こうした態度はもちろん「前近代的」ですから、近代的な態度からするとあまりよろしくないものと考えられています。(くまぶしは別によろしくないとは考えていませんが、よろしいこととも考えていません。もちろん、くまぶし自身はそれほど伝統主義的ではありません。クール&シニカルなくまなのです。)けれど、昔の人はだいたい伝統主義です。有職故実とかはまさにそうですし、神話や儀礼が意味を持つ根拠というのも、こうした伝統主義的態度にあるわけです。
例えば、あるお祭りをするのは、昔からしてきたからです。一般にお祭りには、豊作になるとか穢をはらうとか、そういったさまざまな「効能」があるとされていますが、そうした「効能」ゆえにお祭りをするというのは正確ではありません。まず第一にお祭りをすることになっていて、そのお祭りに+αとして「効能」があるというのが正確だと思います。極端な話、今の人はたいてい、お祭りに「効能」があるなんて信じちゃいませんが、それでもお祭りをします。(しない人ももちろんいますが。)その点では、昔の人と同じだと思います。
さて、以上が文字通りの意味での伝統主義ですが、これに対して、くまぶしの気に入らない伝統主義というのは、近代的伝統主義のことです。近代的伝統主義というのは、近代ナショナリズムとだいたい同じものだと思います。この態度では、伝統が大事だと主張しますが、本当の伝統主義のように、伝統に「盲従」しません。本当の伝統主義は、魚が水の中にいるように、伝統の中で生きていて、それ以外の生き方というのはありえないのですが、近代的伝統主義は、「伝統に従わなければならない」と主張します。つまり、伝統に従うか従わないかは、個人や共同体の選択にかかっているわけです。だから結局のところ、大事なのは伝統ではなく、特定の伝統を大事だと思う自分の判断なのです。
お相撲の場合でいうと、ガッツポーズをしないこととか、女性を土俵に上げないことが伝統的であるがゆえに守られなければならないというなら、「かわいがり」も、相撲協会の閉鎖的性質も、八百長も、伝統的であるがゆえに守られなければならないといわなければなりません。「よい伝統」は伝統であるがゆえに守らなければならず、「悪い伝統」は伝統であっても守るべきではないというのはおかしいと思います。
長くなったので結論をいうと、「伝統ゆえに」ということは、本当の伝統主義的人間以外(つまり近代人)にとっては、理由にならないということです。今回の相撲協会の判断もそうですが、近代的人間が「伝統」を論拠に何かを批判するときは、単に明確に提示しえない「自己」というのを正当化しているだけだと思います。特に朝青龍に対して「伝統」を云々するというのは、近代ナショナリズム全開でちょっと不愉快です。そんなに「伝統」が大事なら、最初から相撲なんぞやらせなきゃいいのにと思います。
ちょっと攻撃的になりましたが、別にそれほど怒っているわけではありません。こういうことはよくあることですし。ただ、相撲協会の人が、神さまがどうのこうのいっていたので、2センチくらいむかついただけです。ちなみに、くまぶしが困ったことだと思っていることは、本当の伝統主義と近代的伝統主義を一緒くたにすることです。くま。
2009-01-29(Thu)
朝青龍のガッツポーズのこと
昨日、ニュースを見ていたら、朝青龍がガッツポーズをしたといって、相撲協会の人が文句をいってました。

なんでも、ガッツポーズというのは、品格にかけるんだそうです。それで、誰だか知りませんが、「土俵は神さまも見ていて神聖だからガッツポーズをしちゃいけないんだ」といってました。
なんのこっちゃとおもいます。
神さまがガッツポーズを嫌うというのは偏見だと思いますし、ガッツポーズが品格がないというのも偏見だと思います。
本当は、横綱は品格がなくちゃいけないというのも偏見だと思いますが、それはまあいいです。横審がいう品格というのは、中学校の校則で中学生らしい服装をしなさいというようなもので、明確に定義できないきまりをつくって、なんとなく気に入らないやつをいじめるためにあるんだと思います。
相撲協会は、すぐに伝統だというのを好みますが、ガッツポーズをしちゃいけないとかいうのは、たぶん、最近になって捏造した伝統にすぎないと思います。

前に紹介した、かたおかめという昔のお相撲とりです。品格ないですね。でもこの人は横綱じゃなかったから、いいのかもしれません。
お相撲が、もともと神事だったというのは本当ですが、儀礼(リチュアル)と祭礼(フェスティバル)でわけたら、もちろん祭礼のほうです。品格だの何だのというのが大事なのは、リチュアルのほうで、フェスティバルにおいては、逆に、そんなのかんけーねーという大騒ぎが大事なわけです。
だから、横綱に品格がなくちゃいけないといってもまあいいですけど、あんまりうるさくいうのは興ざめですくま。

なんでも、ガッツポーズというのは、品格にかけるんだそうです。それで、誰だか知りませんが、「土俵は神さまも見ていて神聖だからガッツポーズをしちゃいけないんだ」といってました。
なんのこっちゃとおもいます。
神さまがガッツポーズを嫌うというのは偏見だと思いますし、ガッツポーズが品格がないというのも偏見だと思います。
本当は、横綱は品格がなくちゃいけないというのも偏見だと思いますが、それはまあいいです。横審がいう品格というのは、中学校の校則で中学生らしい服装をしなさいというようなもので、明確に定義できないきまりをつくって、なんとなく気に入らないやつをいじめるためにあるんだと思います。
相撲協会は、すぐに伝統だというのを好みますが、ガッツポーズをしちゃいけないとかいうのは、たぶん、最近になって捏造した伝統にすぎないと思います。

前に紹介した、かたおかめという昔のお相撲とりです。品格ないですね。でもこの人は横綱じゃなかったから、いいのかもしれません。
お相撲が、もともと神事だったというのは本当ですが、儀礼(リチュアル)と祭礼(フェスティバル)でわけたら、もちろん祭礼のほうです。品格だの何だのというのが大事なのは、リチュアルのほうで、フェスティバルにおいては、逆に、そんなのかんけーねーという大騒ぎが大事なわけです。
だから、横綱に品格がなくちゃいけないといってもまあいいですけど、あんまりうるさくいうのは興ざめですくま。
theme : 文明・文化&思想
genre : 学問・文化・芸術
tag : 朝青龍







