2008-05-18(Sun)
こぐまが来た話(ロバ先生と女の子たち2)
昨日は、すてきなお客が来ました。こぐまです。
二匹のこぐまが、両親に連れられてやって来たのです。父親(名前は弱といいます。もうおっさんです。)が、かっぱの同級生だったので、くま自慢に来たのでした。1歳3ヵ月と、3歳のくまです。激烈でした。くま。特に、小さい方(女)は、歩き始めたばかりで、ちょっと言葉らしきものを話します。くまー。たまりませんね。こいつ、食っていいか?と思いました。足が、ミシュランマンみたいなのです。
↓つづき
二匹のこぐまが、両親に連れられてやって来たのです。父親(名前は弱といいます。もうおっさんです。)が、かっぱの同級生だったので、くま自慢に来たのでした。1歳3ヵ月と、3歳のくまです。激烈でした。くま。特に、小さい方(女)は、歩き始めたばかりで、ちょっと言葉らしきものを話します。くまー。たまりませんね。こいつ、食っていいか?と思いました。足が、ミシュランマンみたいなのです。
↓つづき
こぐまと遊んでいたら、ロバ先生が来ました。モバイルのパソコンを買ったのだけど、ネットにつながらないといって、かっぱに相談に来たのでした。かっぱもそんなに詳しいわけではないのですが、ロバ先生は特別にメカに弱いので、いろいろ聞きにくるのです。うちのLANにつないだらすぐにつながりました。どういうことか、よくわかりません。
先生もちょっとくまを見たのですが、「鞄に入れて持って行きたくなるな」と言っていました。先生にしては珍しいです。先生によると、8歳すぎたら、憎たらしさがまさるそうです。ペーズリー呼ばわりされたことを、いまだに根に持ってるみたいです。
くま達が帰ってから、先生に、こないだの記事を読ませたら、読みながら、まず、「大滝はそこまで好きじゃない。智衆は好きだが。」と言いました。それから、「まとはずれだとー。」と言いました。最後の方では、「なるほどー。そうかもしれん。」と言いました。えへん。ちょっと自慢です。
それから、このあいだ、リアクションペーパーに、「先生の言うことの半分もわかりません」と書かれたという話をしました。リアクションペーパーというのは、授業の感想とかを書いてもらう紙で、出席をとる代わりに配るのです。先生は、わかりやすく話していたつもりだったので、ちょっとさびしく思ったみたいでした。
先生は、「『実在』とか言うと、みんなぽかーんとするのだ」と言います。それで、「実在」とは何かから説明しようとするわけです。先生もかわいそうですが、女の子たちにも同情しますね。
先生は、単純に、「実在」という言葉が難しいだけで、「実在」それ自身については、女の子たちも知っているはずだし、気づいていないだけで、重要な問題だと思っているに違いないと思うわけです。そもそも、「実在」というのは、本当にあると感じるもの(そのように感じる体験)なわけですから、それを体験していない人はいないわけです。それはそうなのですが、ロバ先生のように、それを「実在」という言葉で把握しようとする態度は、一般的ではありません。どうしてかというと、あるものにおいて、本当に実在を感じている人は、それに対して「実在」という別の名前をつける必要を感じないからです。先生のために、くまぶしが、ためしに説明してみるぶし。親切だぶしね。
たとえば、昨日遊びに来たくまの親父の弱さんは、二匹のくまにおいて「実在」を体験しています。たぶん。彼にとっては、くまがいるからこそ「実在」があるわけで、くまと離れて「実在」はありえません。だから、考えるだに恐ろしいことですが、もしか彼のくまが死んでしまったら、彼にとっては実在が失われるわけです。これは大げさにいうのではなしに、世界喪失の体験です。そうなってみなければわからないことなので、本当のところはなんともいえませんが、まず間違いなくそうだと思います。
もちろん、彼の世界を形成する実在は、くまだけではないでしょう。彼には、かわいい妻もいますし、今度家を新築するつもりですし、楽器の演奏も好きですし、会社の仕事だって実在の一部ではあるでしょう。それら全部が実在なのですが、とりあえず今のところ、彼にとって最も実在的な実在は、彼のくまだということです。顔を見ればわかります。たとえていうと、くまという真実在と、そのくまによって実在的になる実在、くまに従属した諸実在とがあるわけです。会社をクビになったら、ちょっとへこむでしょうが、「くまのために」ぜひとも新しい仕事を見つけなければなりません。新築した家が火事になって、家のローンだけが残ったら、すごくがっかりするでしょうが、「くまさえいれば」(もちろん妻もですが)なんとかなると思います。けれど、くまがいなくなったら、仕事があっても、家があっても、それに何の意味があるのだと思うわけです。彼にとって、仕事や家は、かつてと同じように「意味あるもの」(実在)とは感じられなくなるわけです。
さて、彼にとってのくまが以上のようなものだとします。そのとき彼は、「大事なのは、意味があるのは、くまであって実在ではない」ということもできるのです。というか、そう言う方が一般的だと思います。で、ロバ先生の女の子たち(このように言うと、なんだか先生がモテモテみたいですね)にとっても、それぞれ「実在」があるはずですが、彼女たちもやっぱり、「大事なのは、実在じゃなくて○○だ」と思っているのだと思います。これが、こないだの記事で、「女の子たちは、具体的なものにこそ意味があると思っています。」と書いた意味です。彼女たちがそのように言うのは、それぞれにとっての「実在」が、本当の意味で実在だからです。「実在」という言葉では表現されえないほど、実在的なのです。
さて、以上のようにいうと、ロバ先生は実際のところは「実在」を体験していないからこそ、意識的に「実在」を問題にしなければならないのではないかというふうにも考えられるわけです。女の子たちの側から、ロバ先生の態度を批判するなら、そういう言い方になるでしょう。これは、わりと当たっているかもしれませんし、実はロバ先生のことを知らないからそう見えるだけかもしれません。これについてのくまぶしの意見はまた今度書きます。ただ、彼女たちにとって、ロバ先生が、なにが楽しくて生きているかわからない生き物だというのは、彼が実在的に生きているようには感じられないということだから、少なくとも彼女たちの視点からすると、ロバ先生が「実在」を知らないからこそ、それを探そうとしていると見えるのは仕方がないことだと思います。
それはともかく、実際、先生が学生になにか書かせると、自分には○○があるから、「宗教」なんて必要ないんだと書いてくる子が結構いるらしいです。これは要するに、ロバ先生は宗教をすごい大事なことのように思っているみたいだが、私にはもっと大事なことがあるからどうでもいいという意味です。そのように思うことは別に間違いではないし、それで十分といえばまあ十分なのですが、そういう態度は、旅に出る前の星の王子さまとおんなじだと思います。比喩的にいうと、世界の内部にいるだけの場合、その世界の実在性はそれだけ強いのだけど、それゆえに、世界について「知る」ことができないわけです。
控え目にいっても、理論的には、自分にとっての実在以外は存在しないという独我論的世界にとらわれてしまいます。まあ、実際はそんなことはないでしょうが。それというのも、彼女たちは、そこまで本気で、「自分にとっての実在」と思っているわけではなくて、自分にとっての実在を、「客観的実在」だと無邪気に信じているだけからです。
くまぶしはそう思うので、それならそれでいいよと思うのですが、ロバ先生はロバなので、理論的にそうなるということから、彼女たちが本当に独我論的世界に暮らしていると思っているみたいです。でも、彼女たちからすると、ロバ先生の方が、300倍くらい独我論的世界に暮らしているように見えるんじゃないかと思います。それで、ロバと女の子たちの間の対話は、宗教間対話のように難しくなるわけです。(これは冗談です。)
先生もちょっとくまを見たのですが、「鞄に入れて持って行きたくなるな」と言っていました。先生にしては珍しいです。先生によると、8歳すぎたら、憎たらしさがまさるそうです。ペーズリー呼ばわりされたことを、いまだに根に持ってるみたいです。
くま達が帰ってから、先生に、こないだの記事を読ませたら、読みながら、まず、「大滝はそこまで好きじゃない。智衆は好きだが。」と言いました。それから、「まとはずれだとー。」と言いました。最後の方では、「なるほどー。そうかもしれん。」と言いました。えへん。ちょっと自慢です。
それから、このあいだ、リアクションペーパーに、「先生の言うことの半分もわかりません」と書かれたという話をしました。リアクションペーパーというのは、授業の感想とかを書いてもらう紙で、出席をとる代わりに配るのです。先生は、わかりやすく話していたつもりだったので、ちょっとさびしく思ったみたいでした。
先生は、「『実在』とか言うと、みんなぽかーんとするのだ」と言います。それで、「実在」とは何かから説明しようとするわけです。先生もかわいそうですが、女の子たちにも同情しますね。
先生は、単純に、「実在」という言葉が難しいだけで、「実在」それ自身については、女の子たちも知っているはずだし、気づいていないだけで、重要な問題だと思っているに違いないと思うわけです。そもそも、「実在」というのは、本当にあると感じるもの(そのように感じる体験)なわけですから、それを体験していない人はいないわけです。それはそうなのですが、ロバ先生のように、それを「実在」という言葉で把握しようとする態度は、一般的ではありません。どうしてかというと、あるものにおいて、本当に実在を感じている人は、それに対して「実在」という別の名前をつける必要を感じないからです。先生のために、くまぶしが、ためしに説明してみるぶし。親切だぶしね。
たとえば、昨日遊びに来たくまの親父の弱さんは、二匹のくまにおいて「実在」を体験しています。たぶん。彼にとっては、くまがいるからこそ「実在」があるわけで、くまと離れて「実在」はありえません。だから、考えるだに恐ろしいことですが、もしか彼のくまが死んでしまったら、彼にとっては実在が失われるわけです。これは大げさにいうのではなしに、世界喪失の体験です。そうなってみなければわからないことなので、本当のところはなんともいえませんが、まず間違いなくそうだと思います。
もちろん、彼の世界を形成する実在は、くまだけではないでしょう。彼には、かわいい妻もいますし、今度家を新築するつもりですし、楽器の演奏も好きですし、会社の仕事だって実在の一部ではあるでしょう。それら全部が実在なのですが、とりあえず今のところ、彼にとって最も実在的な実在は、彼のくまだということです。顔を見ればわかります。たとえていうと、くまという真実在と、そのくまによって実在的になる実在、くまに従属した諸実在とがあるわけです。会社をクビになったら、ちょっとへこむでしょうが、「くまのために」ぜひとも新しい仕事を見つけなければなりません。新築した家が火事になって、家のローンだけが残ったら、すごくがっかりするでしょうが、「くまさえいれば」(もちろん妻もですが)なんとかなると思います。けれど、くまがいなくなったら、仕事があっても、家があっても、それに何の意味があるのだと思うわけです。彼にとって、仕事や家は、かつてと同じように「意味あるもの」(実在)とは感じられなくなるわけです。
さて、彼にとってのくまが以上のようなものだとします。そのとき彼は、「大事なのは、意味があるのは、くまであって実在ではない」ということもできるのです。というか、そう言う方が一般的だと思います。で、ロバ先生の女の子たち(このように言うと、なんだか先生がモテモテみたいですね)にとっても、それぞれ「実在」があるはずですが、彼女たちもやっぱり、「大事なのは、実在じゃなくて○○だ」と思っているのだと思います。これが、こないだの記事で、「女の子たちは、具体的なものにこそ意味があると思っています。」と書いた意味です。彼女たちがそのように言うのは、それぞれにとっての「実在」が、本当の意味で実在だからです。「実在」という言葉では表現されえないほど、実在的なのです。
さて、以上のようにいうと、ロバ先生は実際のところは「実在」を体験していないからこそ、意識的に「実在」を問題にしなければならないのではないかというふうにも考えられるわけです。女の子たちの側から、ロバ先生の態度を批判するなら、そういう言い方になるでしょう。これは、わりと当たっているかもしれませんし、実はロバ先生のことを知らないからそう見えるだけかもしれません。これについてのくまぶしの意見はまた今度書きます。ただ、彼女たちにとって、ロバ先生が、なにが楽しくて生きているかわからない生き物だというのは、彼が実在的に生きているようには感じられないということだから、少なくとも彼女たちの視点からすると、ロバ先生が「実在」を知らないからこそ、それを探そうとしていると見えるのは仕方がないことだと思います。
それはともかく、実際、先生が学生になにか書かせると、自分には○○があるから、「宗教」なんて必要ないんだと書いてくる子が結構いるらしいです。これは要するに、ロバ先生は宗教をすごい大事なことのように思っているみたいだが、私にはもっと大事なことがあるからどうでもいいという意味です。そのように思うことは別に間違いではないし、それで十分といえばまあ十分なのですが、そういう態度は、旅に出る前の星の王子さまとおんなじだと思います。比喩的にいうと、世界の内部にいるだけの場合、その世界の実在性はそれだけ強いのだけど、それゆえに、世界について「知る」ことができないわけです。
控え目にいっても、理論的には、自分にとっての実在以外は存在しないという独我論的世界にとらわれてしまいます。まあ、実際はそんなことはないでしょうが。それというのも、彼女たちは、そこまで本気で、「自分にとっての実在」と思っているわけではなくて、自分にとっての実在を、「客観的実在」だと無邪気に信じているだけからです。
くまぶしはそう思うので、それならそれでいいよと思うのですが、ロバ先生はロバなので、理論的にそうなるということから、彼女たちが本当に独我論的世界に暮らしていると思っているみたいです。でも、彼女たちからすると、ロバ先生の方が、300倍くらい独我論的世界に暮らしているように見えるんじゃないかと思います。それで、ロバと女の子たちの間の対話は、宗教間対話のように難しくなるわけです。(これは冗談です。)




