2008-07-09(Wed)
たたりの話
こんにちは。くまぶしです。今日はたたりの話をします。
みなさん、たたりというと、なんか怖いものとか、いやなものとか、思うと思いますが、くまぶしの考えはちょっと違うので、くま宗教学におけるたたりの意味というのをお話しようかと思います。
折口信夫によると、日本語のたたりという言葉は、「たつ」と「あり」が複合したものだそうです。後世風に言えば、「たてり」となります。「たつ」というのは、岩波古語辞典によると、「自然界の現象や静止している事物の、上方・前方に向かう動きが、はっきりと目に見える意。転じて、物が確実に位置を占めて存在する意」です。
八雲立つとか、霧立ちのぼるとか、風立ちぬとかいいますね。これは、はっきり見える(わかる)ことです。月立つというのは、月が見えるようになったということです。「月立てり見ゆ」とかいいます。
ちなみに、「つきたち」が音便して「ついたち」になります。もっとも、今の暦では朔(さく)のことを「ついたち」にして、これを新月としていますが、朔というのは月が見えないことです。ちょっとおかしいですが、昔は三日月のことを新月にしていたらしいので、もともとは、今まで見えなかった月が見えるようになる晩が「ついたち」というわけです。
↓つづくぶし。
みなさん、たたりというと、なんか怖いものとか、いやなものとか、思うと思いますが、くまぶしの考えはちょっと違うので、くま宗教学におけるたたりの意味というのをお話しようかと思います。
折口信夫によると、日本語のたたりという言葉は、「たつ」と「あり」が複合したものだそうです。後世風に言えば、「たてり」となります。「たつ」というのは、岩波古語辞典によると、「自然界の現象や静止している事物の、上方・前方に向かう動きが、はっきりと目に見える意。転じて、物が確実に位置を占めて存在する意」です。
八雲立つとか、霧立ちのぼるとか、風立ちぬとかいいますね。これは、はっきり見える(わかる)ことです。月立つというのは、月が見えるようになったということです。「月立てり見ゆ」とかいいます。
ちなみに、「つきたち」が音便して「ついたち」になります。もっとも、今の暦では朔(さく)のことを「ついたち」にして、これを新月としていますが、朔というのは月が見えないことです。ちょっとおかしいですが、昔は三日月のことを新月にしていたらしいので、もともとは、今まで見えなかった月が見えるようになる晩が「ついたち」というわけです。
↓つづくぶし。
あと、音をたてるとか、腹立ちとか、名とか噂が立つとか、思い立つとか、役に立つとか、戸をたてるとか、いろいろありますが、ようするに、出現するとか、めだつとか、はっきりわかるとか、そういうニュアンスです。イメージとしては、柱を立てるとか、木が立ってるとか、家を建てるとかいうように、垂直方向(縦)です。宗教学的には、中心のシンボリズムと関係が深いと思います。
一方、「あり」というのは、そのまんま、あるということです。それで、折口氏の説だと、神さまとかが、「はっきりとあらわれる」というのが、たたりの原義だということになります。詳しく知りたい人は、「「ほ」・「うら」から「ほがひ」へ」という文を見てください。全集の16巻にのってます。
さて、以上のように、神さまとかが「はっきりと出現する」ことがたたりだとすると、人が「たたり」と思うのは、それまでは「はっきりとある」とは知らなかった神さまとかが、「はっきりとある」とわかった時に、そう思うわけです。だから、「たたり」と思うときには、だいたいみんなびっくりします。それまで知らなかった神さまが知られるようになることだからです。
リアリティーとの関係でいうと、それまでリアルと思っていた世界の中に、突如として、それまでのリアリティーを帳消しにしてしまうような、リアルなもの(存在するもの)が現れる体験です。おおげさにいえば、そういう体験によって、それまでリアルと思っていた世界が、実はリアルではなかったとわかるわけです。そういう、おおげさなたたりは、例えば、古事記に書いてある大物主の祟りとか、菅原道真の祟りとかです。
もっとも、本当の体験というのは、構造的には、みなたたり的構造をもっていると思います。たとえば、桃がうまいこととかです。もちろん、桃がうまいことははじめから知っていることですが、「桃はうまいと知っていること」と、実際に桃を食べる(体験する)こととは違うことです。一期一会的に桃がうまいと体験されたら、それは桃におけるたたりといってよいと思います。イザナキの命は、桃に助けられた後に、「オホカムヅミ」という神さまの名前をつけました。一期一会的に桃がうまかった時は、桃は神さまになっているわけです。
ただ、普通の人はなかなか桃を神さまと思うことはありません。それで、ただの桃と思っているわけです。別にそれで悪いわけではないのですが、万事が万事その調子でいくと、そのうち大げさなたたりがあるわけです。だから、人によったら、たたりは、人間に対する罰だと思われることもあります。
けれどくまぶしは、たたりを罰としてだけ理解するのは一面的だと思います。どうしてかというと、人間が、自分の知的理解だけで世界を区切っていったときに、困るのはその人間自身だからです。桃の神さまは、自分がただの桃と思われても、別に怒ったりはしません。桃の神さまを桃の神さまとして理解できないとき、損をしているのは、桃の神さまではなくて、人間の方だと思います。だから、わかりやすい大げさなたたりというのは、神さまの側からしたら、人間に対する親切なのだと思います。キリスト教の原罪というのも、たぶんそうしたものなのでしょう。意地悪をされていると思うのは、ちょっとひがんだ見方だと思います。
ちょっと話が飛んでしまいましたが、今日はこれでやめます。次は、いろいろなたたりの話を紹介したいと思います。くま。
一方、「あり」というのは、そのまんま、あるということです。それで、折口氏の説だと、神さまとかが、「はっきりとあらわれる」というのが、たたりの原義だということになります。詳しく知りたい人は、「「ほ」・「うら」から「ほがひ」へ」という文を見てください。全集の16巻にのってます。
さて、以上のように、神さまとかが「はっきりと出現する」ことがたたりだとすると、人が「たたり」と思うのは、それまでは「はっきりとある」とは知らなかった神さまとかが、「はっきりとある」とわかった時に、そう思うわけです。だから、「たたり」と思うときには、だいたいみんなびっくりします。それまで知らなかった神さまが知られるようになることだからです。
リアリティーとの関係でいうと、それまでリアルと思っていた世界の中に、突如として、それまでのリアリティーを帳消しにしてしまうような、リアルなもの(存在するもの)が現れる体験です。おおげさにいえば、そういう体験によって、それまでリアルと思っていた世界が、実はリアルではなかったとわかるわけです。そういう、おおげさなたたりは、例えば、古事記に書いてある大物主の祟りとか、菅原道真の祟りとかです。
もっとも、本当の体験というのは、構造的には、みなたたり的構造をもっていると思います。たとえば、桃がうまいこととかです。もちろん、桃がうまいことははじめから知っていることですが、「桃はうまいと知っていること」と、実際に桃を食べる(体験する)こととは違うことです。一期一会的に桃がうまいと体験されたら、それは桃におけるたたりといってよいと思います。イザナキの命は、桃に助けられた後に、「オホカムヅミ」という神さまの名前をつけました。一期一会的に桃がうまかった時は、桃は神さまになっているわけです。
ただ、普通の人はなかなか桃を神さまと思うことはありません。それで、ただの桃と思っているわけです。別にそれで悪いわけではないのですが、万事が万事その調子でいくと、そのうち大げさなたたりがあるわけです。だから、人によったら、たたりは、人間に対する罰だと思われることもあります。
けれどくまぶしは、たたりを罰としてだけ理解するのは一面的だと思います。どうしてかというと、人間が、自分の知的理解だけで世界を区切っていったときに、困るのはその人間自身だからです。桃の神さまは、自分がただの桃と思われても、別に怒ったりはしません。桃の神さまを桃の神さまとして理解できないとき、損をしているのは、桃の神さまではなくて、人間の方だと思います。だから、わかりやすい大げさなたたりというのは、神さまの側からしたら、人間に対する親切なのだと思います。キリスト教の原罪というのも、たぶんそうしたものなのでしょう。意地悪をされていると思うのは、ちょっとひがんだ見方だと思います。
ちょっと話が飛んでしまいましたが、今日はこれでやめます。次は、いろいろなたたりの話を紹介したいと思います。くま。




